お米マイスター




レストランに行っておいしいワインを飲みたいと思ったとき、わたしたちはソムリエという人に相談します。
ソムリエは、料理に一番合うワインを選び、そのワインについて様々な説明をしてくれます。

では、おいしいごはんを食べたい、お米に関して詳しく知りたいと思ったときには、誰に相談すればいいでしょうか。


「お米マイスター」という人がいます。


お米マイスターは、日本米穀小売商業組合連合会(以下、日米連)に認定された、まさにお米の専門家です。
お米マイスターには、三つ星お米マイスターと、さらに高い専門的知識を持つ五つ星お米マイスターがいます。

三つ星お米マイスターになるためには、日米連が主催する講習を受け、筆記試験に合格する必要があります。
お米屋さんを営んでいるなどお米に関する専門的経験がある人にのみ受験資格が与えられます。

五つ星お米マイスターは三つ星お米マイスターでないと受験できません。
当然、合格するには、お米の精米技術や消費者に対する説明などの難しい実技試験を突破しなければなりません。


このような厳しい試験を突破したお米マイスターは、専門的な知識を生かして各地でお米やごはんに関する情報を提供しています。
その一つとして、お米マイスターが小学校に行ってお米に関する授業を行う「ごはんパワー教室」があります。
この授業では、お米がどのように作られ、流通・加工を経てごはんとして食べられるのかということだけでなく、朝食にごはんを食べ、バランスの良い食事をすることの大切さも学びます。

お話の後にはみんなで炊いたごはんをおむすびにして食べ、ごはんのおいしさを再確認します。
最後に、子ども達には、お米について勉強した証(あかし)として「ジュニアお米マイスター」の認定書とバッチが渡されます。
このような授業は、全国で年間1000カ所以上で実施されています。


また、お米マイスターはお米のブレンド技術の向上にも取り組んでいます。
料理の世界では創作料理が広まっていますが、ブレンド米も職人としての経験を生かした創作米といえるでしょう。

お米と一口にいっても、味や硬さ、粘り、香りなど様々な性質があります。
そのような個々の性質を把握した上で、ニーズに合うようお米をブレンドします。

たとえば、すし飯に使うお米は、粘りが少なく、適度な硬さをもち、味は控えめであるのがよいとされています。
しかし、一つの品種でそのような性質を全て兼ね備えているお米はありません。
そこで、特徴のあるお米を組み合わせ、すし飯として理想のお米を創作するのです。

今、スーパーやディスカウントショップなど、お米は様々なところで販売されていて、お米屋さんでお米を買うことが少なくなったという人もいるでしょう。
しかし、お米の専門家であるお米マイスターがみなさんの家の近くにもいるかもしれません。

お米マイスターのいるお店は日米連のHPで検索できます。
みなさんもお米マイスターにいろいろなことを相談し、いつも食べているお米をもう一度見つめ直してみてはいかがでしょうか。


日本米穀小売商業組合連合会(http://www.okome-maistar.net/
2011.02.28 Monday - 00:00 comments(0)

すしと樽


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みなさんはお刺身が好きですか?

中には干したり熟成させたりした方が美味の魚もありますが、多くの魚は新鮮なものを生でお刺身にするのが一番ですよね。

しかし、生魚はすぐに腐ってしまいます。
前回のこのシリーズで述べたとおり、日本人は肉食ではなく、魚を貴重なたんぱく源として食べてきました。

漁村をはじめ海に近いところでは新鮮な魚を比較的容易に手に入れることができましたが、山の中では海の魚を生で食べることは、魚を氷詰めにして運ぶことができるようになった大正時代まであり得なかったのです。


つまり、昔は山の中で海の魚を食べようとすると、加工して輸送しなければなりません。

また、漁村でも一時的に大量に獲れた魚を保存して食料を確保していました。
そこでおこなわれたのが干す、塩漬けにするなどの方法です。


そして、もう一つ、大切な方法がありました。
それは発酵させるという方法です。

この方法は干したり塩漬けにしたりするより魚の味が変わりにくく、風味も豊かになって美味であることからも好まれました。

魚の発酵保存のカギを握るのはごはんで、少し塩をまぜたものを使用します。
そのごはんとごはんの間に魚をはさんで重ねていき、上に蓋をして重しをのせます。こうやって発酵させて出来上がったものをすしといいます。

かつてはごはんを捨てて魚だけを食べていましたが、発酵したごはんも魚といっしょに食べるようになり、やがて発酵を待たずに酢飯に生魚という今のにぎり寿司のスタイルへと変化していきます(詳しくは2008年度授業「ごはん四方山ばなし:すしに見るごはんと魚の酸っぱい関係」をご覧ください)。

魚は比較的身の締まった魚が用いられました。

特に腐りやすいさばは保存のため多く加工され、味も良いので大変喜ばれました。
はじめはさばやあじなど身近な魚が用いられ、やがてあゆやますなどの川魚でもつくられるようになったようです。

ちなみに四国の山奥ではいのししの肉もすしに加工して保存していたようで、魚肉・獣肉問わず発酵は実に適した保存法だったのです。


発酵という方法は魚の保存のみならず幅広く活用され、むしろ日本人の食は発酵なしでは語れないくらい重要な役割を果たしていますが、背景には発酵に関する知恵、特にでんぷん類が発酵する能力を持っていることを私たちの祖先が早くから知っていたことがあります。

その知識と技術を生かして、酒、味噌、醤油、酢、漬け物、納豆などさまざまな食品が生み出され、食と健康を支えてきたのです。


中でも味噌は非常にすぐれた発酵食品です。

特に塩と魚に乏しい山村では、味噌は塩分の補給のみならず、重要なたんぱく源でもありました。

東北地方では1ヶ月に100回くらいみそ汁をすすっていた地域もあります。
1日3食としても1ヶ月に90回ですから、3度の食事以外にもみそ汁を口にしていたのですね。

それが戦後の食糧不足時に、健康を支えてくれた大きな力になっていたようです。

日本の農村で味噌の自家醸造が広く普及していたのは、栄養源として味噌が重要視されていたことの傍証でもあるのです。


味噌などの発酵食品がさかんにつくられていたわが国では、壺が発達しました。発酵させるためには空気が必要ですが、空気の量を制限することが求められます。

そこで壺が活躍したのです。

壺を用いながらも発酵させずに保存したのはお茶くらいなものですが、茶壺は湿気を防ぐために口がやや細くなっています。


しかし、今から600年くらい前かそれ以前に、竹を輪に編んでいくたがの技術が入ってきます。

すると、こんどはこれをもとにして、木とたがで桶や、桶に蓋をプラスした樽をつくるようになります。

関西を中心に吉野の杉が利用されて桶や樽がつくられ、それを用いて灘五郷などで酒造業が発展していきます。


灘の酒は樽に詰められ、「下り酒」として廻船で江戸に運ばれ大いに消費されましたが、空っぽになった樽は今でいう「ワンウェイ容器」で、江戸に置かれていきます。

すると、こんどはその樽が発酵用に「リユース」され、練馬大根や菜っ葉の漬け物のなどに用いられていくようになります。

さらにそういう樽や桶を利用して、野田・銚子など千葉のしょうゆ醸造産業も発達していったのです。


発酵はまさに日本人のツボにはまり、すたることなく今でも私たちの食生活を支えています。
 


参考文献
宮本常一『塩の道』講談社学術文庫
宮本常一『宮本常一著作集24 食生活雑考』未来社
宮本常一『宮本常一著作集49 塩の民俗と生活』未来社

2011.02.27 Sunday 日本人と食文化 00:00 comments(0)

肉とのし

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私たちの祖先が編み出した知恵、重ねた苦労、思い描いていた思想などから学ぶことは多いものです。

日本人と食文化」のシリーズでは、生活や習俗、そして地域と食のかかわりについてのエピソードを紹介します。


戦後の日本では食の西洋化が進み、私たちの食生活はすっかり「肉食系」になってしまいましたが、もともと日本人は肉をほとんど食べませんでした。

これは仏教で殺生を強く戒めたことが主な原因と言われています。
しかし、仏教が入ってくるずっと前、先史時代は肉が大切な食料であったことは、縄文の遺跡から獣骨がたくさん出てきていたことからも想像に難くありません。


当時は牧畜をしていたのではなく狩猟により肉を得ていて、獣を捕らえさせてもらうために神に祈りをささげていたようです。

その際、いけにも供えることが普通でした。

かつて獣を殺すことを「ホウル」といいましたが、獣をホウって神にささげる役目を担っていた神主のことを「ホウリ」といっていたようです。


東日本のシカやクマ、西日本のイノシシなどの野獣は例外として、仏教が入ってきてから肉をほとんど食べなくなった私たちの祖先も、魚だけは食べていました。

そして、それまで神には獣肉を供えていたものが、肉に代わって魚になっていきました。

そこから、めでたいときはなまぐさい魚を食べ、逆に不幸のあったときはなまぐさい物を食べないというような区別が生まれてきます。


こうして「なまぐさい物」=「めでたい」が定着していき、お正月や村全体で祝う祭りなどの行事や、結婚式、成年式、誕生日など家々の吉事には魚を食べるようになると、家々での祝い事の際はともかく、正月などになると同じ日に村中、国中が祝うので、たいへんたくさんの魚が必要になる訳です。

すると、たくさん獲れる大きな魚が必要です。
ゆえに、東日本ではさけやます、西日本ではぶりが、正月用の魚として用いられたのです。


おもしろいことに、かつてはにも魚を食べていました。

盆というと仏事で縁起の良いイメージではありませんが、仏教が日本に入ってくる前は、盆は正月と同様に一年の区切りで、それが死んだ者の祭りになったという説があります。

近畿地方の山間部では「めでた盆」とか「生き盆」というならわしがあり、死者が出なかった年や両親の揃っている家では子どもが親にサバやトビウオなどを買って持ってきたそうです。

冷蔵庫などない時代ですから、サバは塩物、トビウオは背を割いてひらきにした干物でした。
ちなみにサバは熊野のものが、トビウオは日向のものがうまいとされていたそうです。


盆や正月のみならず、めでたいときは季節の魚を食べていたようです。

瀬戸内では4月頃に人を招いてタイをごちそうする風習があったとか。
また、田植えの時にはスズメダイを食べ、半夏生(はんげしょう=夏至から数えて11日目)にはタコを食べ、大和地方では秋祭りにカニをたくさん食べ、西日本では稲の刈りあげの祝いにシイラを食べるなど、地域地域で決まった時期に決まった魚を食べる風習が定着していきます。

それは、獣肉にかわり魚が重要なたんぱく源として生活に深く根付いていったことの傍証でもあります。


ところで、今日、吉事の際に祝儀を渡すとき、必ずのし(熨斗)をつけたり、のし袋に入れたりしますよね。
こののしはなぜ祝い事についてまわるのでしょうか?

実は、のしは「なまぐささ」を意味するもので、つまり吉事をあらわしているのです。

そして、もともと「のし」は「のしあわび」だったのです。

アワビを細長くむいて伸ばして天日干しにし、乾いたものをへらのようなものでのして束にして、かつては朝廷などに献上していたのです。
今でも伊勢神宮では、のしあわびが奉納されています。

こののしあわびを祭りの時にはなまぐさいものとして神前に供え、めでたいことのある時には贈り物にしたのでした。

それがやがて、物を贈るときにそれがめでたいものであると、のしあわびを一枚紙に包んで添えたのです。

ちなみに、のしはなまぐさいものを象徴するので、贈り物が魚や鳥のとき、贈り物に鰹節などの動物質の食物が添えられているとき、葬儀や法事などなまぐさいものを食べてはいけない精進の日のときには、のしはつけないのがならわしです。


それが今日、あわびの姿は消えても、のしとして吉事をあらわすスタイルが残っているのです。

今やあわびは超高級食材。
もしのしあわびを添える風習が残っていたら、贈り物よりのしの方が高くついたかもしれませんね。



参考文献
宮本常一『宮本常一著作集24 食生活雑考』未来社
柳田国男『定本 柳田国男集』筑摩書房
国崎町町内会ホームページ

2011.02.25 Friday 日本人と食文化 00:00 comments(0)

鎖国とさつまいも

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私たちの祖先が編み出した知恵、重ねた苦労、思い描いていた思想などから学ぶことは多いものです。

「日本人と食文化」のシリーズでは、生活や習俗、そして地域と食のかかわりについてのエピソードを紹介します。


グローバル化がすすんだ現代社会において、経済のダイナミズムは国境ですら軽々と乗り越えています。

一方でその動きに乗じ、わが国は海を越えて安価なものを求めてきた帰結として、食糧自給率が約4割と危険水域に入りつつあります。
しかも、肉は国産でもその飼料はアメリカ産だったり、野菜は国産でもその種子は中国産だったりと、自給率の数字に隠れた現実を顧みると、わが国がいかに食料を海外に頼っているかがわかります。


そんな日本も、海外からの貿易をほぼ遮断していた時代がありました。

それは、寛永16年(1639)にはじまり安政5年(1858)まで続いた鎖国の時代です。

鎖国が可能だったのは、食糧を自給できたからにほかなりません。
200年以上もの長きにわたり自給率100%が可能だったとは、現在では想像もつきませんよね。


当時は幕藩体制で、それぞれの地域は領国ごと大名が統治していました。
ですから、飢饉に襲われると、食糧のある地域の殿様はその藩内の米をほかに売り出すことをやめてしまう津留(つどめ)をおこない、領国内の食糧を確保します。

裏返せば飢饉がおきてもほかの藩から米を得ることは困難ということです。

だから、飢饉をおこさないようにしないと藩の存亡にかかわり、どんな小さな藩であっても食糧を自給できる態勢を整えなければならなかったのです。

食糧の自給は地域の問題ゆえ、食糧危機になると庶民にもストレートに打撃がきました。
つまり、米不足が起きても自分たちは何もする必要はなく、黙っていても政府が備蓄米を放出しタイから米を輸入してくれる現代とは違い、民衆にとって食糧の確保は死活問題だったのです。


そんな民衆にとって大きな力となってくれたものは、意外にも鎖国直前に海の向こうから新しくやって来た作物でした。

それはさつまいもです。

1492年に新大陸を発見したコロンブスが、さつまいもをスペインへ持ち帰りイザベラ女王に献上した話は有名ですが、さつまいもはそれ以降(ポリネシアではそれ以前から)世界中へと広がっていきます。

日本本土へは中国〜琉球を経て元和元年(1615)にやって来たという説が有力です。
これは、長崎の平戸からシャムに向かって出航した三浦按針(あんじん)ことウイリアムス・アダムスが船の不備のため那覇から引き返すこととなった際、そこでみつけたさつまいもを持ち帰り植えたものです。

また、薩摩ではフィリピンのルソンから慶長17年(1612)頃伝えられたという説もあります。

いずれにせよ17世紀前半に日本に渡来し広がりますが、当時は蕃薯(ばんしょ)、またはリュウキュウ芋とよばれていたようです。

ほかにもいくつかの経路があり、さつまいもは徐々に広がっていきます。

しかし、当時の栽培法は芋そのものを植えるもので、種芋に対する収穫量はそう多くはありませんでしたが、多収が得られるツル植えがおこなわれるようになる17世紀後半頃から第二次の伝播がはじまり、特に水田が少ない九州西部から瀬戸内にかけては急速に広まっていきます。

中でも離島のように平地が少なく水利が悪いため米作りが難しいところでは、さつまいもは貴重な食糧として定着していきます。

瀬戸内にさつまいもがもたらされたのは正徳4年(1714)頃。

その18年後の享保17年(1732)に西日本ではウンカの大発生により稲作は壊滅的な被害に遭いましたが、さつまいもの入っていた瀬戸内の大三(おおみ)島や生口(いくち)島では飢饉による死者は出ていません。

それどころか人口の増加を支え、地域に活力を与えてくれたのです。

さつまいもの伝播には、旅がひとつの情報源として大きな役割を果たしていたようです。
大三島の下見(あさみ)吉十郎は愛児たちを次々と失った悲しみから追悼の旅に出かけ、薩摩の伊集院でさつまいもを知るのですが、これを故郷へ持ち帰ればどれだけ多くの命が救われるだろうと考えます。

そこで、作り方を熱心に聞き、持ち出し禁止の種芋を着衣の深くに隠して郷里へ持ち帰り広めていきました。

また、石見(いわみ:島根県西部)では井戸正明(まさあきら)という代官が、旅の僧から薩摩の国ではどんなやせ土にもできて日照りにも強く味も良い芋を作っているとさつまいもの話を聞き、すぐに種芋を取り寄せ、そこから山陰一帯へ広まりました。

さつまいもで有名な人物といえば青木昆陽(こんよう)ですが、彼は徳川吉宗の後ろ盾を得て、関東近郊や伊豆諸島、佐渡島などへ種芋と栽培法を記した『蕃薯考』を配布してさつまいもの普及に努めました。

このほかにも武士、名主、医者、学者、船乗り、漁夫、農夫など、多くの勇気と善意ある民衆たちのおかげでさつまいもは広がり、数多くの命が飢饉から救われたのです。


このようにさつまいもはもともと国家がトップダウン的に広めたものではなく、庶民たちが生きる糧として求め、自らの手で得てきたものなのです。

その営みの積み重ねこそ、食糧の自給をなし得る力となり、鎖国下でも干上がらない国をつくっていたのです。

このことは危機的な状況にあるわが国の自給率を考えるにあたり、非常に大きな示唆となることでしょう。

食糧自給の問題とはつまり、私たち一人ひとりの問題であるのです。

2011.02.23 Wednesday 日本人と食文化 00:00 comments(0)

塩と道草




人間は、ただ無意識に食べている訳ではありません。


食には環境や習俗、思想や技術などさまざまな要素が複雑に折り重なり、社会や文化にさまざまな影響を与え、またそれ自体も文化なのです。

食料は人間の生命を育みますが、食文化は人間の生活を育んでいるのです。

日本人の基層にある食にまつわる文化を顧みることは、私たちの食生活のみならず、日本人の歩んできた足跡を照射するものではないでしょうか。

私たちの祖先が編み出した知恵、重ねた苦労、思い描いていた思想などから学ぶことは多いもの。

「日本人と食文化」のシリーズでは、生活や習俗、そして地域と食のかかわりについてのエピソードを紹介します。

国内を旅すると、こんなに山深いところにと思うくらい奥地にまで集落があることに驚きます。

そんな山里でも生活が成り立っていたことは、食料や物資を調達できたということに等しいのです。

田畑を切り開いて米や雑穀、野菜などを育て、山に分け入れば薪だけでなく木の実や山菜、時には獣肉まで得ることができたでしょう。

わき水や沢の水はのどを潤し、清流には魚がいます。
こう考えると、裕福とは言えないまでも、持続的に暮らしを成り立たせることができたことは想像に難くありません。


でも、生きていくために絶対必要不可欠ながら、ひとつだけ山里で手に入らないものがありました。さて、それは何でしょう?


答えはです。


生物としての人間が生命を維持するためには、水、空気、そして塩が必要なことはみなさんご存じだと思います。
つまり、山村が存在したということは、そこで塩を入手できたことにほかなりません。

しかし、身の回りで得ることができないとなると、どこかから運んでくるしか方法がありません。
ということは、山奥に通じる「塩の道」が存在した、ということになります。


例外的に、会津の熱塩(あつしお)や信州・伊那谷の鹿塩(かしお)などでは、その名の通り塩泉が湧き、そこから塩を得ていましたが、基本的に塩は海のあるところで生産されていました。

かつては全国各地の沿岸地域で海水を煮詰めて小規模な製塩がおこなわれていましたが、江戸時代になると赤穂など瀬戸内海の塩田が発達し、全国各地へ流通するようになります。

東北など瀬戸内から遠いところでは小規模な製塩が残っていましたが、どこの塩であろうが海から山奥へと運ばれたことは変わりません。また、塩として単体ではなく、塩魚として塩を得ていたところもあります。


ところで、今でこそ塩は当たり前の存在でありがたみすら忘れ去られていますが、山村ではとかく塩は得難いものでした。

塩いわしなどは煮ると塩が抜けてしまうので必ず焼いて、焼いた日はまずなめる、翌日に頭を食べ、次の日は胴を食べ、明くる日はしっぽを食べ…というように、4日もかけて食べたそうです。

また、塩分だけでなく、塩からとれるにがりも無駄にしませんでした。
わざわざにがりの多い悪い塩を買い、樽の上にざるにを置いてその上に塩を乗せ、自然に落ちてくるにがりを集め、それを豆腐づくりに使用していたのです。昔の人の知恵には感服しますね。


では、塩はどのようにして山里に運ばれたのでしょう。瀬戸内など遠方からの塩は船で海を行き、時には川をさかのぼって途中まで水運で運ばれ、そこから山へと向かいます。

もちろん、産地から近い山里へは直接陸路を行きます。
トラックなどない時代ですので、陸上の運搬手段は人力か牛馬かしかありません。


特に活躍したのは牛です。
馬の方が軽快で便利なようですが、日本古来の馬は小柄で大きな荷をつけることが難しく、さらに野宿に不便だったのです。

一方の牛は大きな荷を乗せられ、すぐ横になって寝るので野宿に都合が良く、足の力が強いので細い道や悪い道でも安定して進んでくれたのです。

山深い岐阜や長野あたりで、牛が「陸船(おかぶね)」とよばれていたゆえんです。
そして何より、牛は餌に困りません。

道草を食ってくれる、つまり道ばたに生えている雑草で餌がまかなえ、餌代がかからなかったのです。

ちなみに馬は「口籠(くちご)」という籠を口元にとりつけ、むやみに周囲のものを食べさせないようにしていました。


塩の流通の痕跡は、今でも海なし県に塩尻〔長野県〕(=塩を運んだ最終地)塩津〔滋賀県〕四方津〔しおつ:山梨県〕(=塩を扱った船着き場)という地名にも残っています。

そして、わが国の道はすべて海に通じています。
それは、私たちの祖先が生きていくために、貴重な塩を運んだ「生命の道」であり、今でも大きな役割を果たしているのです。


たまにはゆっくり道草でもして、何気なく通っている道のルーツを考えてみませんか?



参考文献
日本塩業体系編集委員会編『日本塩業体系 特論民俗』日本専売公社
宮本常一『塩の道』講談社学術文庫
宮本常一『宮本常一著作集49 塩の民俗と生活』未來社
楠原祐介・溝手理太郎編『地名用語語源辞典』東京堂出版

2011.02.21 Monday 日本人と食文化 00:00 comments(0)
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