ごはん食の移り変わり<弥生時代〜平安時代>

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私たちが毎日食べているお米。

日本人がお米をどのように調理して食べてきたのか時代ごとの移り変わりを見てみましょう。


弥生時代

紀元前3世紀ごろ、中国大陸から稲作が伝わり、日本各地に広まると、日本人の食生活は、米食を中心に営まれるようになりました。
初期には焼き米として食べていたようですが、やがて米を土器で煮るほかに、蒸す方法も行われるようになりました。
これは、弥生土器の内側にこげた飯(めし)が残っていたり、遺跡から底に穴のあいた「こしき(米などをむす道具)」と見られる土器が発見されたことから想像されています。


飛鳥時代

7世紀になると、米はこしきで蒸して食べるのが普通になりました。

蒸した米は「強飯(こわいい)」と呼ばれ、ほかに現在のごはんと同じように炊いた「固がゆ」が食べられるようになりました。
これは、女性や老人、幼児などが食べていたことから「姫飯(ひめいい)」とも呼ばれました。

また、老人や子ども、病人の食事として現在の粥に近い「水粥」などもありました。
貴族のあいだでは、精白した米を食べる習慣が生まれました。


奈良時代

律令制度が確立し、朝廷の貴族たちの食生活は豊かになりました。

しかし、貴族にくらべて下級役人たちの食事は品数も少なく、質素なものでした。

重い税を課せられた庶民は、収穫した米はほとんど食べることができず、雑穀が中心でした。
山上憶良(やまのうえのおくら)の「貧窮問答歌(ひんきゅうもんどうか)」にでてくる北九州の農家では、かまどにクモの巣がかっているというありさまでした。


平安時代

奈良時代と同じように、貴族は強飯を食べていました。

副食は品数も多く豪華なのですが、魚貝類や肉類の多くは遠方から運ばれるため、干物などに加工してあり、新鮮なものは少なかったようです。
そのため、栄養が偏った不健康な食事になりがちでした。

一方、庶民の食事は質素でしたが、玄米飯に自分達でとった新鮮な肉なども食べたので、貴族にくらべて健康だったようです。
食事の回数は、朝夕2回がふつうでしたがきつい労働をするときにはそれに応じて食事をとりました。


(その2に続く)



<参照・出典:ごはんを食べよう国民運動HP、米穀機構・米ネットHP>

2010.12.15 Wednesday お米の歴史 00:00 comments(0)