山田錦の誕生

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ある日、杜氏の親方が若い蔵人をきつく叱ると、キレて腹いせに灰を酒樽に投げ込んで逃げた。

翌日の朝、せっかく造った酒が駄目になったと蔵の者があきらめて捨てようかと蓋を開けてみたところ、なんと濁っていた酒が澄みわたっていた。

飲んでみるとまぎれもなく酒の味。これは素晴らしいと江戸へ送られ、飛ぶように売れた…。


そんな逸話が残っていますが、無色透明の清酒は江戸時代初期に鴻池村(現在の伊丹市)で生まれました。

以降、生産拠点はより江戸へ運びやすい灘五郷へと移行し、現在でも全国の清酒の約3割を兵庫県で生産しています。

酒造が発展した理由として、宮水(みやみず)をはじめとする六甲山系の伏流水、技術の高い丹波杜氏、六甲山から吹き下ろす寒風などの自然条件や流通に適合した交通の便などいろいろありますが、播州平野を中心に生産される良質の酒米もその一つ。

その代表が山田錦です。


山田錦はもはや酒米の代名詞、押しも押されもせぬ全国ブランドです。

米の表面のヌカ層が薄いこと、タンパク質含有量が低いこと、精米するときに砕けにくいことという酒米に大切な条件を兼ね備え、大粒で心白(中心の白い部分)が多く高度精白に適し、吟醸酒や大吟醸酒にも好適。

弾力がある米質なので麹菌の繁殖が容易、低温でも溶解性がよいなどさまざまな特徴を持ち、全国の酒造業者から高い評価を得ています。


そんな山田錦の歴史をひもとくと、誕生は昭和に入ってから。

しかし、その研究は大正時代から続いていました。

かつて兵庫県内ではさまざまな品種の酒米が生産されてきましたが、県立農事試験場が新品種を発見し、明治末期から「山田穂(やまだほ)」や「渡船(わたりぶね)」などの品種を推奨してきました。

しかし、当時の品種は収量が少なく、草丈が長いために倒れることもしばしば。そこで、農事試験場ではさらなる品種改良、特に草丈の短い品種に取り組みます。


西海重次技師が「山田穂」と「短桿(たんかん)渡船」を大正12年(1923)に交配させ、それがやがて「山渡50-7」という系統の新品種に成長、農地での実地試験にたどり着きます。


兵庫県は昭和3年(1928)に全国でも類をみない酒米試験地を加東郡福田村(いまの加東市)に設立、栽培適地を利用し品種改良と栽培法の改善をおこなっていましたが、新品種も昭和7年よりここで心白量、耐病性、収量などを試験。

さらにより正確な産地適応性をつかむため、美嚢郡奥吉川村(いまの三木市)に委託試験田を設けました。


この試験地の主任、藤川禎次の指導のもと、約20種の酒米と比較され、「山渡50-7」がどの品種よりもすぐれた性質を持つことを確認。

昭和11年(1936)に「山田錦」と命名され、県の推奨品種となりました。

これまでの酒米と比べ心白量が多く大粒で、収量が多いことも手伝い広く普及するようになりましたが、戦時体制による食糧生産へのシフトで一時期は縮小。

それでも藤川はこつこつ献身的に比較試験を繰り返し、山田錦を守っていました。


戦後ふたたび酒米の栽培が盛んになると、山田錦は播州平野を中心とする兵庫県各地、さらに県外へと広まります。

特に気候条件が栽培に適した三木市吉川地区や加東市東条地区では山田錦の栽培が盛んで、品質の高さから全国の酒造メーカー垂涎の的となっています。


兵庫で誕生し、兵庫で生産される山田錦は、今なお後続の品種に王座を譲ることなく、農業と酒造という2つの地域産業をしっかりと支えています。


参考文献
前重通雄、小林信也『最新日本の酒米と酒造り』賢養堂
兵庫県教育委員会編『郷土百人の先覚者』兵庫県教育委員会


2010.11.04 Thursday 兵庫の自慢 00:00 comments(0)