灘の酒を支えた丹波杜氏(とうじ・とじ)

兵庫の自慢:灘の酒を支えた丹波杜氏(とうじ・とじ)



全国に誇る灘の酒は、言うまでもなく兵庫の自慢のひとつです。灘は酒造りにはこの上ない場所で、西宮の宮水や三木・加東あたりの酒米といった得難い原材料が近くにあり、精米に用いられる水車の動力としては六甲から流れる急流があり、市場へ直結する港湾があり…と、奇跡的な好条件が揃っていました。そしてもうひとつ、酒造が発展するにあたり重要な役割を果たしたのが、丹波出身の酒づくりのプロフェッショナル集団、丹波杜氏の存在です。

狭義の「杜氏」とは、蔵人をまとめ酒造りを任される酒造のリーダー(頭司)のことをいいますが、広義では丹波杜氏のように「杜氏」を頂点とする酒造り集団のことをいいます。この集団のほとんどは同郷者により結成されていたので、「地名+杜氏」という呼び方が定着していったようです。

灘の酒の創成期の寛政期(1789〜1800)、杜氏は灘の青木や深江、あるいは播磨の人たちが中心でしたが、化政期(文化:1804〜1817・文政:1818〜1829)には播磨と丹波、そして天保期(1830〜1843)以降は丹波杜氏へと集中していきます。灘や播磨の杜氏が退いたのは賃金の高騰が主な要因ですが、灘の杜氏たちがその技術を持って近江(滋賀県)や紀伊(和歌山県)をはじめ遠くは下総(千葉県)や常陸(茨城県)まで出稼ぎへ行くようになったことも理由のひとつです。

一方で丹波杜氏が重用された理由は、技術的な面が大きかったようです。化政期は文化3年(1807)の「勝手造り令」(酒造免許がなくても、新規に届出さえすれば酒造りが可能となった制度)により灘の酒造地が飛躍的な発展をみせる時期で、競争が熾烈(しれつ)を極め、醸造期間の短縮が課題となりました。そこで、酒母(しゅぼ)をつくる期間を短くする「ギリもと」という丹波流の技術が導入されたのです。このような技術改善により労働の強化が必要となりましたが、共同体としてまとまりのあった丹波杜氏はその面でもすぐれていました。

灘で重用された丹波杜氏ですが、その背景には篠山藩の厳しい実情がありました。江戸初期の篠山藩には地主と隷属関係を結ぶ農民が存在し、年中過酷な労働を強いられていました。ため池造営などで農業生産性が向上する元禄期(1688〜1703)になると、隷属から解放され独立するようになるものの、相変わらず藩の収奪は過酷で、一部の農民は農閑期に当時酒造が盛んだった池田・伊丹などへと出稼ぎに行くようになります。藩はこれを規制しましたが、生計を立てるために規範を打ち破って出稼ぎに行く者が後を絶ちませんでした。やがて藩も農閑期の出稼ぎを認めるようになり、化政期になると藩権力をバックとした地主が出稼ぎ労働者を掌握し、規範の中で酒造地へ労働力を送り込むようになります。

もちろん、このような過程の背景には、丹波の地理的環境も挙げられます。当時の農業は米づくりが主だったので、寒さが厳しい丹波では冬は農業が営めない環境にあり、出稼ぎを余儀なくされたのです。さらに、池田や伊丹、灘へは徒歩で1日と近いことも、出稼ぎへと後押ししたようです。

春から秋は米づくりに従事し、冬になると自らの生活をかけて故郷を離れた丹波杜氏は、その高い技術で日本一の酒造地帯を支えました。過酷な環境で辛苦を重ねながら、全国の酒造技術の発展に大きな足跡を残した彼らは、「兵庫の自慢」よりも「兵庫の誇り」と表現する方がふさわしいかもしれません。


参考文献
柚木學『近世灘酒經濟史』ミネルヴァ書房
丹波杜氏組合発行『丹波杜氏』
義本岳宏『杜氏の技 : 職人芸の科学 』恒星出版

2010.04.30 Friday 健康と食文化 00:00 comments(0)