日本人と食文化

 日本人と食文化
 人間は、ただ無意識に食べている訳ではありません。食には環境や習俗、思想や技術などさまざまな要素が複雑 に折り重なり、社会や文化にさまざまな影響を与え、またそれ自体も文化なのです。食料は人間の生命を育みますが、食文化は人間の生活を育んでいるのです。 日本人の基層にある食にまつわる文化を顧みることは、私たちの食生活のみならず、日本人の歩んできた足跡を照射するものではないでしょうか。私たちの祖先 が編み出した知恵、重ねた苦労、思い描いていた思想などから学ぶことは多いもの。「日本人と食文化」のシリーズでは、生活や習俗、そして地域と食のかかわ りについてのエピソードを紹介します。
 国内を旅すると、こんなに山深いところにと思うくらい奥地にまで集落があることに驚きます。そんな山里でも生活が成り立っていたことは、食料や物資を調 達できたということに等しいのです。田畑を切り開いて米や雑穀、野菜などを育て、山に分け入れば薪だけでなく木の実や山菜、時には獣肉まで得ることができ たでしょう。わき水や沢の水はのどを潤し、清流には魚がいます。こう考えると、裕福とは言えないまでも、持続的に暮らしを成り立たせることができたことは 想像に難くありません。

 でも、生きていくために絶対必要不可欠ながら、ひとつだけ山里で手に入らないものがありました。さて、それは何でしょう?

 答えは「塩」です。生物としての人間が生命を維持するためには、水、空気、そして塩が必要なことはみなさんご存じだと思います。つまり、山村が存在した ということは、そこで塩を入手できたことにほかなりません。しかし、身の回りで得ることができないとなると、どこかから運んでくるしか方法がありません。 ということは、山奥に通じる「塩の道」が存在した、ということになります。

 例外的に、会津の熱塩(あつしお)や信州・伊那谷の鹿塩(かしお)などでは、その名の通り塩泉が湧き、そこから塩を得ていましたが、基本的に塩は海のあ るところで生産されていました。かつては全国各地の沿岸地域で海水を煮詰めて小規模な製塩がおこなわれていましたが、江戸時代になると赤穂など瀬戸内海の 塩田が発達し、全国各地へ流通するようになります。東北など瀬戸内から遠いところでは小規模な製塩が残っていましたが、どこの塩であろうが海から山奥へと 運ばれたことは変わりません。また、塩として単体ではなく、塩魚として塩を得ていたところもあります。

 ところで、今でこそ塩は当たり前の存在でありがたみすら忘れ去られていますが、山村ではとかく塩は得難いものでした。塩いわしなどは煮ると塩が抜けてし まうので必ず焼いて、焼いた日はまずなめる、翌日に頭を食べ、次の日は胴を食べ、明くる日はしっぽを食べ…というように、4日もかけて食べたそうです。ま た、塩分だけでなく、塩からとれるにがりも無駄にしませんでした。わざわざにがりの多い悪い塩を買い、樽の上にざるにを置いてその上に塩を乗せ、自然に落 ちてくるにがりを集め、それを豆腐づくりに使用していたのです。昔の人の知恵には感服しますね。

 では、塩はどのようにして山里に運ばれたのでしょう。瀬戸内など遠方からの塩は船で海を行き、時には川をさかのぼって途中まで水運で運ばれ、そこから山 へと向かいます。もちろん、産地から近い山里へは直接陸路を行きます。トラックなどない時代ですので、陸上の運搬手段は人力か牛馬かしかありません。

 特に活躍したのは牛です。馬の方が軽快で便利なようですが、日本古来の馬は小柄で大きな荷をつけることが難しく、さらに野宿に不便だったのです。一方の 牛は大きな荷を乗せられ、すぐ横になって寝るので野宿に都合が良く、足の力が強いので細い道や悪い道でも安定して進んでくれたのです。山深い岐阜や長野あ たりで、牛が「陸船(おかぶね)」とよばれていたゆえんです。そして何より、牛は餌に困りません。道草を食ってくれる、つまり道ばたに生えている雑草で餌 がまかなえ、餌代がかからなかったのです。ちなみに馬は「口籠(くちご)」という籠を口元にとりつけ、むやみに周囲のものを食べさせないようにしていまし た。

 塩の流通の痕跡は、今でも海なし県に塩尻〔長野県〕(=塩を運んだ最終地)、塩津〔滋賀県〕や四方津〔しおつ:山梨県〕(=塩を扱った船着き場)という 地名にも残っています。そして、わが国の道はすべて海に通じています。それは、私たちの祖先が生きていくために、貴重な塩を運んだ「生命の道」であり、今 でも大きな役割を果たしているのです。たまにはゆっくり道草でもして、何気なく通っている道のルーツを考えてみませんか?


参考文献
日本塩業体系編集委員会編『日本塩業体系 特論民俗』日本専売公社
宮本常一『塩の道』講談社学術文庫
宮本常一『宮本常一著作集49 塩の民俗と生活』未來社
楠原祐介・溝手理太郎編『地名用語語源辞典』東京堂出版

2009.08.14 Friday 過去の記事 00:00 comments(0)