すしと樽


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みなさんはお刺身が好きですか?

中には干したり熟成させたりした方が美味の魚もありますが、多くの魚は新鮮なものを生でお刺身にするのが一番ですよね。

しかし、生魚はすぐに腐ってしまいます。
前回のこのシリーズで述べたとおり、日本人は肉食ではなく、魚を貴重なたんぱく源として食べてきました。

漁村をはじめ海に近いところでは新鮮な魚を比較的容易に手に入れることができましたが、山の中では海の魚を生で食べることは、魚を氷詰めにして運ぶことができるようになった大正時代まであり得なかったのです。


つまり、昔は山の中で海の魚を食べようとすると、加工して輸送しなければなりません。

また、漁村でも一時的に大量に獲れた魚を保存して食料を確保していました。
そこでおこなわれたのが干す、塩漬けにするなどの方法です。


そして、もう一つ、大切な方法がありました。
それは発酵させるという方法です。

この方法は干したり塩漬けにしたりするより魚の味が変わりにくく、風味も豊かになって美味であることからも好まれました。

魚の発酵保存のカギを握るのはごはんで、少し塩をまぜたものを使用します。
そのごはんとごはんの間に魚をはさんで重ねていき、上に蓋をして重しをのせます。こうやって発酵させて出来上がったものをすしといいます。

かつてはごはんを捨てて魚だけを食べていましたが、発酵したごはんも魚といっしょに食べるようになり、やがて発酵を待たずに酢飯に生魚という今のにぎり寿司のスタイルへと変化していきます(詳しくは2008年度授業「ごはん四方山ばなし:すしに見るごはんと魚の酸っぱい関係」をご覧ください)。

魚は比較的身の締まった魚が用いられました。

特に腐りやすいさばは保存のため多く加工され、味も良いので大変喜ばれました。
はじめはさばやあじなど身近な魚が用いられ、やがてあゆやますなどの川魚でもつくられるようになったようです。

ちなみに四国の山奥ではいのししの肉もすしに加工して保存していたようで、魚肉・獣肉問わず発酵は実に適した保存法だったのです。


発酵という方法は魚の保存のみならず幅広く活用され、むしろ日本人の食は発酵なしでは語れないくらい重要な役割を果たしていますが、背景には発酵に関する知恵、特にでんぷん類が発酵する能力を持っていることを私たちの祖先が早くから知っていたことがあります。

その知識と技術を生かして、酒、味噌、醤油、酢、漬け物、納豆などさまざまな食品が生み出され、食と健康を支えてきたのです。


中でも味噌は非常にすぐれた発酵食品です。

特に塩と魚に乏しい山村では、味噌は塩分の補給のみならず、重要なたんぱく源でもありました。

東北地方では1ヶ月に100回くらいみそ汁をすすっていた地域もあります。
1日3食としても1ヶ月に90回ですから、3度の食事以外にもみそ汁を口にしていたのですね。

それが戦後の食糧不足時に、健康を支えてくれた大きな力になっていたようです。

日本の農村で味噌の自家醸造が広く普及していたのは、栄養源として味噌が重要視されていたことの傍証でもあるのです。


味噌などの発酵食品がさかんにつくられていたわが国では、壺が発達しました。発酵させるためには空気が必要ですが、空気の量を制限することが求められます。

そこで壺が活躍したのです。

壺を用いながらも発酵させずに保存したのはお茶くらいなものですが、茶壺は湿気を防ぐために口がやや細くなっています。


しかし、今から600年くらい前かそれ以前に、竹を輪に編んでいくたがの技術が入ってきます。

すると、こんどはこれをもとにして、木とたがで桶や、桶に蓋をプラスした樽をつくるようになります。

関西を中心に吉野の杉が利用されて桶や樽がつくられ、それを用いて灘五郷などで酒造業が発展していきます。


灘の酒は樽に詰められ、「下り酒」として廻船で江戸に運ばれ大いに消費されましたが、空っぽになった樽は今でいう「ワンウェイ容器」で、江戸に置かれていきます。

すると、こんどはその樽が発酵用に「リユース」され、練馬大根や菜っ葉の漬け物のなどに用いられていくようになります。

さらにそういう樽や桶を利用して、野田・銚子など千葉のしょうゆ醸造産業も発達していったのです。


発酵はまさに日本人のツボにはまり、すたることなく今でも私たちの食生活を支えています。
 


参考文献
宮本常一『塩の道』講談社学術文庫
宮本常一『宮本常一著作集24 食生活雑考』未来社
宮本常一『宮本常一著作集49 塩の民俗と生活』未来社

2011.02.27 Sunday 日本人と食文化 00:00 comments(0)