銀シャリは江戸の華

 ごはんの四方山話:銀シャリは江戸の華

せっかちな岡っ引きが十手(じって)片手に、下手人(げしゅにん)を捜してとある長屋へ。そこではおかみさんたちが井戸端で世間話をしながら大根を洗い、粋でいなせな魚屋が天秤(てんびん)をかついで魚を売り歩いている…。そんなシーン、時代劇ではおなじみですよね。時代劇では当時の生活模様が描写されていますが、長屋暮らしの江戸の町人たちは実際、毎日どのようなごはんを食べていたのでしょうか。

江戸時代ももちろん主食はごはんですが、農民ではない江戸の町人たちはお米をどのように入手していたのでしょうか。江戸時代は「石高」が財力や資産をあらわしていたように、お米が経済の基礎でした。その米が、江戸の町には全国から100万石も集まり、50あまりの米蔵に納められていました。今でも台東区(たいとうく)の蔵前(くらまえ)などの地名に、その名残が伺えます。そこから俸禄米(ほうろくまい)が武士たちに給料として与えられ、余った分は米問屋に売られましたが、その米問屋は搗き(つき)米屋に卸し、そこから町人へと流通していました。搗き米屋が登場したのは承応(165255)から明暦(165558)にかけて。それまでは玄米もしくはそれぞれが適宜搗いて食べていたと思われますが、それ以降は三分、五分、七分などお客の好みに応じて搗いていたようです。

白米を食べるようになったのは、元禄(16881703)の頃といわれています。また、このころから12食から3食へと移り変わります。白米〜銀シャリは当時、何よりのごちそう。おかずは質素でも白米を好んで食し、なんと成人男子で15合も食べていたようで、白米を腹一杯食べられるのが江戸っ子の自慢でした。ところが、白米が町民に定着するにつれ「江戸わずらい」、つまり脚気(かっけ)が流行するようになります。原因はぬかの部分に多く含まれるビタミンB1の欠乏で、その部分を食べていた時代にはない病気でした。もちろん、当時は原因や対処法などは知られていなかったので、時には命を落とす人もいたようです。参勤交代などで江戸に詰めている武士や、地方からやってきた商人などにも多く発症するものの、故郷に帰ると自然と治ってしまうので「江戸の奇病」として恐れられていました。このことから逆に、江戸以外の地方では白米ではなく、ビタミンB1を含む玄米や麦飯などが食べられていたことが伺えます。

今では炊飯器で簡単にごはんが炊けますが、かつてはかまどで炊いたので、火をおこすだけでも大変な労力でした。よって、ごはんを炊くのも11回。朝にごはんを炊き、朝は炊きたてのごはんを食べ、昼と夜の分はお櫃(ひつ)に入れて保存していました。夕食にはごはんが冷えてしまっているので、お茶漬けで食べることも多かったようです。ちなみに上方では昼にごはんを炊き、朝夕の冷やごはんは茶粥にしてというのがパターンだったようです。

食卓は一汁一菜が基本。朝食ならごはん・みそ汁・漬物という献立がポピュラーで、力仕事に就く職人にはこれに納豆が加わるという程度でした。好まれた食材は納豆、豆腐、シジミなどの貝類、イワシやサンマ、大根、青菜類。魚はごちそうでしたが、マグロは下魚(げぎょ)とされ、特にトロの部分は嫌われて肥料として使われていたとか。今聞くと何とももったいない話ですよね。ほかにも煮売屋(にうりや)がお惣菜を売りに来るなど、冷蔵庫などなくても食材に不自由することはなかったようです。

文政(181830)年間の記録によると、納豆が4文、シジミが1升で6文、水菜や小松菜などは3文か4文くらいで家族分がまかなえるくらいという相場です(ちなみに今の感覚でいえば1文は2030円程度)。一方で、お米は「百相場」(ひゃくそうば)といって、毎日100文で買えるだけのお米を買うのが習慣だったようです。お米の価格は作の豊凶(ほうきょう)で移り変わるので、100文で1升買えるときもあれば3合しか買えないときもあったようですが、いずれにせよお米がいかに高かったかがわかります。それでも江戸の庶民たちはお米に執着し、とにかくごはん〜銀シャリが大好きだったのです。


参考文献
大久保洋子監修『江戸っ子は何を食べていたか』青春出版社
有薗正一郎『近代庶民の日常食』海青社
2010.11.24 Wednesday ごはん四方山話 00:00 comments(0)

「○○めし」の魅力




「ごはん」という言葉とほぼ同義語に「めし」という言葉があります。

ともに漢字をあてると「飯」であり、もともとお米を炊いたごはんのことが転じて食事のことをさすようになったものです。

しかし、「ごはん」は「御飯」でていねいな感じを受けるのに対し、「めし」はフランクで庶民的なイメージです。

「○○めし」は親しみやすい「庶民の味」。

それだけに地域との結びつきも強く、全国に名物の「○○めし」があります。


駅弁をみてみると、まさに「○○めし」のオンパレードです。

厚岸(北海道)のかきめし、森(北海道)のいかめし、仙台のはらこめし、高崎のとりめし、小田原の鯛めし、浜松のうなぎめし、福井のかにめし、神戸の肉めし、高松のあなごめし、下関のふくめし、小倉のかしわめし、宮崎の椎茸めしなどなど、枚挙にいとまがありません。

みなそれぞれの地域ご自慢の食材を使用し、まさに名物を折にぎゅっと詰めた玉手箱のようです。


一方で、地域限定でありながら、特産物ではなくむしろ地域の文化と大きく関わり生まれたユニークな「○○めし」というのは珍しい存在ですが、兵庫県にそんな「○○めし」が2つあります。加古川の「かつめし」と神戸・長田の「そばめし」です。


加古川のかつめしをご存じですか?加古川の人は「知っていて当然」と思われるでしょうが、播磨地域以外の人には「聞いたことがない」という人も多いのです。

このかつめしは加古川ではほとんどのレストラン、食堂、喫茶店で当たり前のようにメニューとしてエントリーされ、スーパーのお弁当コーナーでも定番です。

かつめしとはお皿の上に盛られた白ごはんの上にカツを乗せ、そこにデミグラスソース系のたれをたっぷりかけます。付け合わせにはゆでたキャベツが一般的で、お箸で食べるのが常道です。

カツはビーフカツが基本のようですが、トンカツやチキンカツも散見されます。

起源が洋食屋さんのまかないめしということからも、気軽に食べられる庶民派という面が伺えます。

店によってソースやカツの味に「秘伝」があり、食べ歩くのも楽しいかつめし。

加古川市観光協会発行の『かつめしマップ』にはなんと100以上もの店がズラリ。

地元の人にはそれぞれお気に入りの味があるそうで、まさに地域密着の「めし」です。



長田のそばめしも庶民の味です。

長田にはお好み焼き屋さんが至る所にあり、その密集度は日本一とかで、「地ソース」も君臨しています。


諸説あるようですが、昭和30年頃にとあるお好み焼き屋さんで、工場で働く女性のお弁当のごはんを焼きそばと一緒に炒めたのがそばめしの起源として知られています。

長田のもう一つの名物であるぼっかけ、つまりすじ肉と合わせたそばめしが定番のようです。

そばとごはんをすじ肉、キャベツ、ネギなどの具と鉄板で炒めます。そばをコテで細かく刻むことで、ごはんとバランス良く混ざります。

ソース味は、鉄板でほどよくこげたごはんやそばと絶妙の相性です。


そばめしは長田を中心に、神戸周辺のお好み焼き屋さんで見かけるばかりか、最近では大手冷凍食品メーカーで商品化されたり、全国チェーンの居酒屋メニューに載ったりと知名度を上げています。


かつめしも、そばめしも、地域に愛され生活の中に定着しています。

この「○○めし」こそ、ごはん料理のバリエーションを広げる救世主=メシアなのかもしれません。
2010.11.22 Monday ごはん四方山話 00:00 comments(0)

おでんも能も狂言も、元をたどれば・・・?

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おでんの言葉の由来

寒い冬にはすっかりおなじみの国民的食べ物、おでん。
関西では、関東煮(かんとうだき)とも呼ばれ愛されています。


江戸時代に濃口醤油が発明され、江戸では醤油味の濃いだしで煮たおでんが作られるようになり、それが関西に伝わったことからこのように名付けられたと言います(中国・広東のごった煮「広東煮」に由来するという説もあります)。
さて、こんな風に関西でも大人気のおでん。
実はこのおでんという言葉が、田や米にまつわるものだということをご存知でしょうか。
おでんは「でんがく」から発展したと言われています。
江戸時代、宮中に使えた女官たちが隠語として「でんがく」をおでん(おでんがくの略)と呼び、将軍家に仕える女性から町家の女性に広がっていきました。

「でんがく」と聞けば、串にさしたコンニャクや豆腐を思い出しますが、文献に初めて登場するのは室町時代のことで、なかには山椒の若芽を味噌にすり込んでつけた「木の芽でんがく」などもありました。
 
さて、この「でんがく」の名前の由来を調べてみると、平安時代から行われていた伝統芸能の「田楽」からきているようです。
これは田植えのときに田の神を祭るために、笛や太鼓を鳴らして田の畦で歌い舞った田舞(たまい)が起源となっています。
田舞の曲芸を生業にする専門の田楽法師も存在し、この田楽法師が踊る様子と、串にさした豆腐が似ていることから「豆腐でんがく」と呼ばれるようになったといわれています。

田楽と日本伝統芸能との関係

日本の各地に残っている祭り的要素の強かった田楽が、一つの芸能として進化していった背景には、京の宮廷の貴族たちの力添えがありました。
田楽という楽しい踊りがあると知り、興味を示した貴族が都でその踊りを鑑賞し始めます。そして14世紀になると足利尊氏などの権力者はもちろん、地方の武将たちも田楽を後援するようになり、いっそう舞台は華やかになっていきます。
やがて、田楽を超え人気を集める芸能が台頭してきました。
それが今日の能や狂言のルーツとなる猿楽です。

そもそも猿楽は中国より伝わった雑芸のうち、物まねなどの滑稽芸を中心に発展していったと言われます。
そしてこの猿楽を能へと昇華させたのが、かの有名な観阿弥・世阿弥です。
観世一座は、物まね芸に田楽の優美な舞や当時流行した曲舞(くせまい)の音曲を取り入れ、エンターテインメント性の高い演劇を展開し、将軍家に愛され、さらなる発展を遂げて行ったのです。
ちなみに世阿弥の時代は、能と狂言は一つの上演で交互に演じられていました。
面をつけ舞踊的要素の強い能に対し、狂言は猿楽の持っていた物まねや道化的要素を発展させたもので、社会を風刺するような内容のものも多かったそうです。
 
日本が誇る伝統芸能も、身近な食べ物も、もとを辿れば田んぼに戻る。
田んぼから広がる日本の文化、意外で奥が深くて、おもしろいものです。


<参照・出典:「日本全国おでん物語」著・荒井由己 生活情報センター発行「能・文楽・歌舞伎」著・ドナルド・キーン 講談社学術文庫>

2010.11.19 Friday ごはん四方山話 00:00 comments(0)

戦と米飯

 ごはんの四方山ばなし:戦と米飯
「腹が減っては戦はできぬ」と言います。

日本の歴史をひもとくと、国内では数々の戦が繰り広げられてきましたが、兵士を支えてきたのはやはり主食 のお米でした。
戦場という非常事態にある地域は、さまざま制限や困難があることは言うまでもありません。
そのような中で、お米はどのように食べられてきた のでしょう。


古事記によれば、日本武尊(やまとたけるのみこと)の東征のおり、足柄の山中で「御粮食(ミカレヒキコシメ)す」というくだりがあります。
これは干飯 (かれい)、つまりごはんを乾燥させ保存用にした糒(ほしい)と同じものと思われます。
出雲風土記には「御乾飯(ミカレヒ)」、日本書紀には「糒」が登場 しているので、神話の時代から糒があったと考えられます。


糒は袋に入れて携行し、袋のまま水や湯でやわらかくして食べたようです。
糒は塩とともに絶対的な軍用食で、古代の記述では糒は20年も保存できると保存性は折り紙付きでした。
糒以外にも米も持参し、保存のため籾のまま持っていくこともあったようです。


古代はお米を甑(こしき)で蒸して食べる強飯(こわめし)が一般的で、糒は強飯を加工したものでした。
ところが鎌倉時代になると今のような炊いたごはん、姫飯(ひめい)が流行、定着していきます。
それにしたがって戦場でも握り飯が好まれるようになりましたが、糒は携行食、保存食として明治期頃まで長らく採用されます。
豊臣秀吉は朝鮮の役の頃、沿岸の城に糒を保存せよと諸大名に指示していました。


一方の握り飯は、平安時代に登場し、発達していきます。
作るのに手間のかかる糒に取って代って、応仁の乱頃から握り飯がポピュラーとなっていきます。
握り飯は長らくその後の日本の軍用食として定着し、第二次世界大戦時にも食べられていました。


しかし、握り飯は糒のように何日間も保存できるものではないので、戦地でごはんを炊かねばなりません。
悪条件の中でごはんを炊くために、さまざまな方法 があったようです。
草を使用して炊く方法、焼き石を利用する方法、早炊き法などさまざまな工夫が知られていました。
また、青稲を食べる方法もありました。


ごはん以外にも、粥や餅も一部利用されていました。
粥は咀嚼(そしゃく)する必要がないので、危急の場合に用いられました。
餅は大福餅のようなやわらか いものが臨時の携行食として採用されていたようです。
また、生米もそのまま食するために携行していたようで、関ヶ原の合戦の記録にも生米を食したという記 述が残っています。水によく浸して食したようです。


明治維新を経て戦争も近代的になります。飯盒(はんごう)が登場するのは明治末期頃です。
さらに携行に便利な「セロファン袋飯」が登場し、旧陸軍がおお いに利用しました。
防水セロファンの中に米と水を入れ口を閉じ熱湯に入れて炊飯するもので、焼けこげがなく炊き損じが少ないという利点もありました。


自衛隊では缶詰やレトルトの携行食が使用されています。最近の戦闘食(ミリメシ・ミリ飯)ブームでにわかに注目を浴びていますが、赤飯や牛飯など数種類 あり、味は濃いめでカロリーも高くなっています。東京都練馬区の陸上自衛隊広報センターでカロリーが抑えられたお土産用の戦闘食を販売していますので、興 味がある方はどうぞ。


参考文献
陸軍糧秣本廠編『日本兵食史(復刻版)』有明書房
窪寺紘一『米の民俗文化史』世界聖典刊行協会 
「ミリ飯ブーム生んだ“本家”自衛隊ランチ事情」内外タイムス2008年6月9日号(電子版)
玉山和夫、ジョン・ナンネリー『日本兵のはなし』マネジメント社


2010.11.17 Wednesday ごはん四方山話 00:00 comments(0)

ごはん四方山ばなし:すしに見るごはんと魚の酸っぱい関係

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すしは今や日本の代名詞とも言えるくらい世界で知られる食べ物です。

にぎりずし、巻きずし、ちらしずしなど現在ポピュラーなすしに共通していることは犁(などの具)+酢飯瓩任垢、実はここにすしのルーツが隠されているのです。


滋賀県の珍味と言えば鮒(ふな)ずし。

これは鮒を漬け込み乳酸発酵させてつくられるものですが、その過程で重要な役割を果たしているのがごはんなのです。

桶の中に塩漬けした鮒の身にごはんを詰めたものとごはんを交互に敷き詰めて数ヶ月から1年、さらにそれ以上発酵させるものもあるそうです。

食べる時はごはんを取り除いて鮒だけを食します。

ごはんは発酵を手助けする猩凸鬮瓩砲垢ません。


鮒ずしのようにごはんを用いて魚を発酵させたものを「ナレズシ(馴れずし)」と言いい、これがすしの原点と言われています。

すしは最初、魚を保存し発酵させ旨味を引き出して食べるものだったのです。

ちなみにかつては兵庫県でも鯖(さば)や鰺(あじ)をナレズシとして食べていたそうです。


ところが、ごはん食文化の私たち日本人にとって、発酵したものとは言えごはんを捨てるのは勿体ないことです。

また、魚が発酵して完全にナレズシとなるには1年近い時間がかかります。

そこで室町時代中期頃から、ごはんに酸味が出て、魚もある程度乳酸の味がしてきたらごはんと魚を一緒に食べてしまうようになります。

室町の人たちはこれを「ナマナレ(生成)」とよびました。

まさに狎賢瓩劉狷襪讚瓩困靴任后ナマナレがさかんなのは紀州で、現在でも和歌山県内で広く食べられている「早なれずし」などはこのナマナレの狡招廊瓩箸盡世┐襪任靴腓Α

また、姫路の「灘のけんかまつり」の時に食べられるコノシロのすしも、生成の特色を残しています。ごはんはここで発酵の手助けだけでなく魚とともに食べられるようになり、その程良い酸味も好まれたようです。


もともとすしの酸味は発酵によって生み出された物ですが、酢を使用することによりその手間を省くようになっていきます。

このような酢を用いて酸味を出すすしを「ハヤズシ(早ずし)」と言います。

鯖ずしなどの姿ずしや箱ずしなどは酢で魚を漬けて酢飯と合わせますが、これがナマナレからハヤズシへの移行のしはじめと考えて良さそうです。


江戸時代になると、せっかくの新鮮な魚を塩や酢で加工するのは勿体ないと、江戸前のぴちぴちした魚を酢飯にのせるというにぎりずしが発明されます。

諸説ありますが、両国の華屋与兵衛(はなやよへい)が安政年間(1855年頃)前後に考案したという説が有力のようです。

ナレズシでは発酵に用いたごはんを取り除いて魚のみを食べ、それがナマナレで発酵した魚とごはんを同時に食べるようになり、やがてハヤズシで発酵から酢へと調理過程が変わり、やがて酸味はごはんだけに残って、魚は生で食べるようになります。

ごはんは、もともとは魚を保存発酵する手助けから今やすしに欠かせない存在になりましたが、「酸味」がその足跡を物語っているのです。



参考文献
篠田統『すしの本』柴田書店
飯田喜代子「「ナレズシ」から「ハヤズシ」へ」(雄山閣出版『全集 日本の食文化 第7巻』所収)

2010.11.15 Monday ごはん四方山話 00:00 comments(0)
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