ごはん食の移り変わり<江戸時代〜現代>

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前回からの続きです。


江戸時代

江戸時代の中期以降になると、一日三食とることが一般的になりました。

献立はごはんと味噌汁、野菜の煮つけや焼き魚などのおかずが一品という、いわゆる「一汁一菜」でした。
これは武士も町人も基本的には変わりませんでした。

江戸時代の終わりごろに握りずしが現れ、早く手軽に食べられると評判になり、たちまち江戸の名物となりました。
飲食店が広く利用されるようになったのもこの頃からです。


明治時代

1868年(明治元年)、徳川幕府が倒れて明治政府が誕生すると、鎖国が解かれ、西洋の文化や食べ物が急速に流れ込んできました。

それまでは、仏教の教えから禁止されていた肉食が徐々に受け入れられるようになり、人々はおいしくて栄養のある牛肉を好んで食べるようになりました。
洋食屋もでき始め人々の食生活が大きく変わりました。

また、農家に対しては、米を税として納める物納制度が1873年(明治6年)の地租改正で改められ、収穫量によって決められた地価に応じて貨幣で税を納めるようになりました。


大正〜昭和初期


大正時代になると、洋風の食事や食品がふつうの家庭にも広まっていき、日本人の口に合うようにアレンジした料理が数多く生まれました。

また、それまでは、ひとり一人ずつ独立した「箱膳」で食事をとっていましたが、家族がみんなで使う「ちゃぶ台」があらわれ、「食卓を囲む」家族だんらんの光景が見られるようになりました。


昭和〜平成

第2次世界大戦中や戦後には食料が不足して、食生活が苦しくなりましたが、1950年頃になると、食料事情は良くなりました。

そして、1960年頃からの高度経済成長によって海外から肉や穀物などの食品が大量に輸入され、食生活は豊かになりました。
また、インスタント食品や冷凍食品、ファーストフード店があらわれ、外食産業は急成長し、自然食品や健康食品の人気も高まりました。



<参照・出典:ごはんを食べよう国民運動HP、米穀機構・米ネットHP>

2010.12.21 Tuesday お米の歴史 00:00 comments(0)

ごはん食の移り変わり2<鎌倉時代〜戦国時代>

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前回からの続きです。


鎌倉時代

厚手のふたをつけた羽釜が広まり、ごはんの作り方も「蒸す」から、煮る・蒸す・焼くを合わせた「炊く」に発展しました。

戦いに備えて武術の修行に励んでいた武士たちの食事は、玄米の飯と焼き魚や野菜などのおかずに、調味料を添えただけという質素なものでしたが、肉や魚、新鮮な野菜などを食べていたので、伝統に縛られた貴族たちより健康で長生きをすることが多かったようです。


室町時代

日本の代表的な調味料のひとつ「しょうゆ」が普及したのは、室町時代の中期以降のことです。

しょうゆは、古代の調味料、「醤(ひしお)」からできたといわれています。ひしおは、米や麦、豆などを発酵させてから塩をふくませたもので、奈良時代の「大宝律令」にも醤院(ひしおつかさ)という役所が作られていたという記述があります。
このひしおが「溜(たまり)」となり、さらに「醤油」に発展していったとされています。

ちなみに日本のもうひとつの代表的な調味料「味噌」もその歴史は古く、奈良時代の文献に「未醤」として登場しています。
今日のものとはだいぶ違うのかもしれませんが、鎌倉時代には、おかずや戦場での食料として食べられていました。
室町時代には味噌汁が作られるようになり、以後、日本人の食事には欠かせないものになりました。


戦国時代

日常の食事はそれまでと大きくは変わりませんが、戦になると、武士は普段とは違う食事をとりました。

にぎり飯や米を炊いて乾燥させた干し飯(ほしいい)などです。
また、サトイモの茎で縄を作り、それを味噌で煮てから干し、これを刻んで湯の中に入れれば即席の味噌汁になりました。
今で言うインスタント食品の始まりですね。


鎌倉から戦国時代にかけては、現在の私たちにまでつながる食事の基本部分が徐々に確立した時代でした。

それまでは、食事はふつう朝夕2回でしたが、鎌倉時代頃から、武士や農民、僧侶などが朝夕の食事以外に間食をとるようになりました。

室町時代になると、その習慣が貴族や商工業者などの町人たちにも広がり、やがて江戸時代には、昼食を入れた3食が普通となり、現在にいたっています。

また、伝統を守る貴族は、米を蒸した「強飯(こわいい)」を食べていましたが、武士や庶民は、今の飯にあたるやわらかい「姫飯(ひめいい)」を食べるようになりました。
米はまだ贅沢なものでしたが、徐々に庶民の間にも広がっていきました。


(その3に続く)



<参照・出典:ごはんを食べよう国民運動HP、米穀機構・米ネットHP>

2010.12.20 Monday お米の歴史 00:00 comments(0)

ごはん食の移り変わり<弥生時代〜平安時代>

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私たちが毎日食べているお米。

日本人がお米をどのように調理して食べてきたのか時代ごとの移り変わりを見てみましょう。


弥生時代

紀元前3世紀ごろ、中国大陸から稲作が伝わり、日本各地に広まると、日本人の食生活は、米食を中心に営まれるようになりました。
初期には焼き米として食べていたようですが、やがて米を土器で煮るほかに、蒸す方法も行われるようになりました。
これは、弥生土器の内側にこげた飯(めし)が残っていたり、遺跡から底に穴のあいた「こしき(米などをむす道具)」と見られる土器が発見されたことから想像されています。


飛鳥時代

7世紀になると、米はこしきで蒸して食べるのが普通になりました。

蒸した米は「強飯(こわいい)」と呼ばれ、ほかに現在のごはんと同じように炊いた「固がゆ」が食べられるようになりました。
これは、女性や老人、幼児などが食べていたことから「姫飯(ひめいい)」とも呼ばれました。

また、老人や子ども、病人の食事として現在の粥に近い「水粥」などもありました。
貴族のあいだでは、精白した米を食べる習慣が生まれました。


奈良時代

律令制度が確立し、朝廷の貴族たちの食生活は豊かになりました。

しかし、貴族にくらべて下級役人たちの食事は品数も少なく、質素なものでした。

重い税を課せられた庶民は、収穫した米はほとんど食べることができず、雑穀が中心でした。
山上憶良(やまのうえのおくら)の「貧窮問答歌(ひんきゅうもんどうか)」にでてくる北九州の農家では、かまどにクモの巣がかっているというありさまでした。


平安時代

奈良時代と同じように、貴族は強飯を食べていました。

副食は品数も多く豪華なのですが、魚貝類や肉類の多くは遠方から運ばれるため、干物などに加工してあり、新鮮なものは少なかったようです。
そのため、栄養が偏った不健康な食事になりがちでした。

一方、庶民の食事は質素でしたが、玄米飯に自分達でとった新鮮な肉なども食べたので、貴族にくらべて健康だったようです。
食事の回数は、朝夕2回がふつうでしたがきつい労働をするときにはそれに応じて食事をとりました。


(その2に続く)



<参照・出典:ごはんを食べよう国民運動HP、米穀機構・米ネットHP>

2010.12.15 Wednesday お米の歴史 00:00 comments(0)

日本での稲作の歴史

戦後まもなくの静岡県の登呂遺跡での発掘から、日本で稲作が始まったのは弥生時代であると長い間考えられてきました。

しかし、最近になって九州北部の縄文時代末期の遺跡からプラント・オパール(植物の細胞組織に作られるケイ酸体)が発見されたことにより、約3000年前から陸稲(熱帯ジャポニカ)による稲作が行われていたことが分かってきました。


また、福岡県の板付(いたづけ)遺跡や佐賀県唐津市の菜畑(なばたけ)遺跡などから、水田跡や農具などが発見され、水稲である温帯ジャポニカも縄文時代の終わりごろには日本に入ってきていたことが明らかになってきました。


板付や菜畑遺跡の水田では、非常に整備された形で水稲耕作が行われていたらしく、水路や堰(せき)などの灌漑(かんがい)設備の跡も見つかっています。


縄文晩期、北九州地方に伝来した水田・稲作技術は、その後、弥生時代になって急速に日本列島を東へと伝わり始めます。200〜300年の間に九州から近畿、東海地方へと急速に広まっていきました。


さらに時が経って弥生時代中期になると、関東地方のみならず青森県(垂柳遺跡)でも水田が作られ、北海道をのぞく日本列島のかなりの範囲にわたり水田耕作が行われていたことが分かってきました。

現在までに、弥生時代の水田は全国で20か所以上見つかっており、中でもよく知られているのが静岡県の登呂遺跡(弥生後期)で、水田跡とともに、竪穴式住居や高床式倉庫などが見つかっています。


※弥生時代がいつから始まるかについては、これまで紀元前3〜5世紀頃とされていました。しかしお米の栽培がそれ以前から行われ、農耕社会が始まり、村から原始的な国の形ができ始めたことが分かってきたことから、弥生時代の始まりをより古い時代にさかのぼらせた方が適切なのではないかという意見が専門家の間で巻き起こっています。これに対する異論もあり、議論が続いています。



<参照・出典:山岸良二・松尾光「古代日本がわかる事典」日本実業出版社、ごはんを食べよう国民運動HP、米穀機構・米ネットHP>

2010.12.13 Monday お米の歴史 00:00 comments(0)

お米はどこから来たのでしょうか?

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米=稲はもともと、日本列島には自生していない熱帯性植物です。

今日私たちが毎日食べ、日本の農業の中心ともなっているお米は、いったいどこからやって来たのでしょうか?

お米伝来の歴史を調べてみました。


稲作の起源は、今からおよそ1万年〜7000年前、中国・インド・ミャンマーが接している山岳地帯と考えられています。

この頃は陸稲が中心で、アワやキビ、ヒエなどの他のイネ科の作物と一緒に作られていたようです。その後、陸稲は東南アジアや中国各地に広がり、一部は日本へと伝わったと見られています。


水稲のジャポニカ種の祖先となるアジアイネの原産地は、中国の長江(揚子江)中・下流域とする説が有力です。
長江下流の浙江省寧波の河姆渡(かぼと)遺跡からは約7000年前の水田跡や灌漑設備が発見されており、水田での稲作は長江下流で始まったと考えられています。


<日本への伝来>
では長江の中・下流域から日本にはどのようなルートで伝わったのでしょうか?

日本に稲と栽培方法が伝わったのは今から3000年ほど前の縄文時代の終わり頃で、伝わった道すじにはいくつかの説があります。

そのひとつが、長江流域から北上し、山東半島付近から朝鮮半島の南部を通って、九州北部へ伝わったとする説です。

また長江下流域から直接北九州に伝来したとする説や中国南部から沖縄・西南諸島を経て黒潮に乗って南九州に伝わったとする説などがあります。

近年の遺伝子考古学によって大陸からの直接伝来ルートが時間的には早かったことが分かってきました。

また、江南からの黒潮ルートは縄文時代の熱帯ジャポニカの伝来ルートとして有力視されています。


どのルートを通って日本にやってきたかは、はっきりとしないことも多いのですが、稲作が大陸部から海を渡り日本にもたらされたことは、間違いありません。
研究や発掘は現在も続いており、今後新しい発見によって、お米伝来の歴史が書き換えられるかもしれません。



<参照・出典:山岸良二・松尾光「古代日本がわかる事典」日本実業出版社、ごはんを食べよう国民運動HP、米穀機構・米ネットHP>

2010.12.10 Friday お米の歴史 00:00 comments(1)
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