米と文学<俳句その2>
田や稲のある情景を詠んだ俳句の2回目です。
江戸時代後期から明治、大正期の作品の中から、いくつかを見てみましょう。
小林一茶(1763年〜1828年)
松尾芭蕉、与謝蕪村と並ぶ江戸俳諧の巨匠のひとり。
信濃北部の北国街道の柏原宿(現在の長野県上水内郡信濃町)に農家の長男として生まれました。
8歳で江戸へ奉公に出て、29歳の時、故郷に帰り、翌年から36歳の年まで俳諧の修行のため近畿・四国・九州をめぐりました。
50歳のときに故郷に帰り、以後65歳で亡くなるまで柏原で暮らします。
作風は、庶民的な視点でわかりやすく素朴な句が特徴です。
稲かけし夜より小籔は月よ哉
旅人の垣根にはさむおち穂哉
勿体なや昼寝して聞く田植唄
苗代は庵のかざりに青みけり
正岡子規(1867年〜1902年)
明治期の俳人・歌人。現在の愛媛県松山市に生まれました。
西洋の文学や絵のリアリズム手法に影響を受け、事物を見たままに簡潔に描写する「写生」の手法を取り入れました。
子規の俳句は視覚的で、現実の生活に密着した句が多いのが特徴です。
俳句・短歌の改革運動を進め、今日の俳句にも大きな影響を残しています。
稲つけて馬が行くなり稲の中
うぶすなに幟立てたり稲の花 (「うぶすな」とは氏神のこと)
稲の香や野末は暮れて汽車の音
籾(もみ)ほすや 鶏遊ぶ 門のうち
高浜虚子(1874年〜1959年)
愛媛県松山市に生まれ、明治から昭和期に活躍した俳人。
正岡子規が友人とともに創刊した俳句雑誌、「ホトトギス」を引継ぎ、多くの俳人の支持を受ける雑誌へと成長させました。
文体は多様性に富んでいて、季語を重視し、85歳で亡くなるまでに膨大な句を創作しました。
稲の波案山子(かかし)も少し動きおり
稲雀追う人もなし喧(やかま)しき
ひつじ田を犬は走るや畦をゆく
(「ひつじ田」とは、刈り取った稲の株から新たな芽が伸びている田のこと)
今日でも多くのファンを持つ俳句は、江戸時代に松尾芭蕉が単独でも鑑賞に堪える芸術性の高いものとし、明治時代の正岡子規が近代文芸として創作性を重視して変革しました。五・七・五の短い言葉の中に季節や情景を織り込んで、日本語の持つ豊かさを感じさせてくれます。
<参照・出典:「一茶大事典」矢羽勝幸著、「子規句集」岩波文庫、虚子五句集」岩波文庫>